「親指族」はあと1年

 



 ケータイに向かって一心に親指を動かす親指族が、
街中から電車の中、家の中にもいることは、もう普通

の風景になってしまった。ドコモの「iモード」発売以来、2年ちょっとでこうなってしまった。
 だが、普通の風景になったとはいっても、見かけて「ブキミー」と思う気持ち悪さはどうしても消えない。  ついこの間、荻窪からのバスの中で。隣に座った女(厚底)が、ペイント入り長爪の親指を目にもとまらぬ早業で動かしていた。いくつかの停留所を過ぎ、車内が空いてきた頃、女はそれまでの合掛けシートから一人用シートに動こうとした。ところがバランスを崩して大コケ。周囲の人はびっくりして彼女を見守っていたのだが、本人はそしらぬ顔でシートに納まるや、すぐさま例のフィンガー・アクションを再開。しばらくして通話に切り替えると、「ガハハ、そうなのよ。こけちゃってさ。チョーはっずかしいよ、ガハハハ」。僕や他の乗客は、あんぐりフリーズ。3秒たって、「あ、おいしいメールネタにしたわけね」と僕は納得したけど、ねじれんばかりに首を回して一部始終を観察していたおっさんは、さっぱり状況がわかっていない様子。「おいおい、あんたのそのジロジロもネタにされてるよ」といいたかった。
 親指族は厚底女ばかりじゃなく、ビーマンにも蔓延している。50過ぎのおっさんが、電車の中で2台を打ち分けているのも見たことがある(僕じゃないって)。仕事でもメールが電話の代わりになってしまったのだから、当然のことだけど、とりあえずのヒマつぶしで使っている人も少なくないはず。それも一種の中毒状態で。



 親指族があぶなっかしいのはコケるからではない。リアルな空気感を働かせていないことが不気味なのだ。目の前にいてもケータイに没頭しているから、まるで魂の抜け殻状態だ。どんな場所にもそれなりにリアルな緊張感がある。人と人が発しあう視線や電波みたいなものも行き交っている。友人や家族と一緒にいる時には、じかな対話や触れ合いがある。ところが親指族には、目の前のリアルな空気は関係ない。カラオケボックスでも自分の歌が終わればすぐにメールに戻るし、茶の間でも家族無視でやっている。そもそも、こういうリアルさを受け入れる気がないのだ。「ウザイ」のだ。
 だからどうだ、という気はない。きっと大した意味はない。周囲の状況を無視ないし無関心で、何かに浸りこむなんてことは、いつも、どこにでもあることだ。中毒症状にまで至るのは、一定の率の、一定の気質の持ち主だけで、そのほとんどが他にも別のディスコミュニケーション問題を抱えているに違いない。
 ひとくちに親指族といっても、今使っている人の大半は流行のオモチャで遊んでいるだけの層だ。だから一時的なもので、そのうち飽きる。早く浸透したものほど早く飽きられる。あと1年もしないで、親指族はなくなりはしないが激減するはずだ。もっとまっとうな使い方、使い分けをする知恵がつくだろう。普通は。