歴史は、後世の人たちによる照明の当て方、筋運び、演出によってさまざまなニュアンスを帯びる。だが創作ではないので根ざすべき事実を曲げたり隠したりするのは邪道だ。事実というパズルのピースをまず把握したい。それを集めることから意外な側面が見えてくるから歴史の魅力は尽きない。
 有名な「史実」にもたくさんの失われたピースがある。信長の「長篠の戦い」もその一つだろう。後世の講談仕立ての話ではこうなっている。
 天正元年(1573年) 5月21日。武田勝頼率いる騎馬軍団中心の1万5千

と信長・家康連合軍3万8千による「長篠の戦い」が起きた。場所は今の愛知県南設楽郡鳳来町〜新城市に属す。ここで信長は馬防柵を設け、3千の鉄砲隊を交互に撃たせる独創的な「三段うち」で武田軍をほぼ壊滅したといわれる。
 だが、攻守双方に疑問が出ていた。狭い場所に5万もの人間は無理、馬が先に到着してしまう、いや馬が使える状態ではなかった、8時間も同じ無謀な突撃をするのは不自然等々。これらに対する謎解きもたくさん出た。たとえば地元教育委員会の調査で空掘り跡が発掘され、馬防柵以外に土塁や空掘による防備があったという説を裏付けた。また、こうした陣地に拠って連続射撃で迎え撃つ作戦は、スペインの大将軍エル・コルドバが1501年に創案し、信長はそれを知っていたとか、いや島津藩の「釣り野伏せ」作戦として知られていたなどの説が出ている。作家・名和弓雄は、後世の創作部分を12ヵ条で指摘している(「推理と実証 長篠合戦」:文春文庫『エッセイで読む日本の歴史(下)』所収)。それでもまだ謎は解け切れていない。同じ信長の「桶狭間の戦い」だって謎だらけだ。ふうむ、奥が深い。ネットの中には、歴史に絡めた新説・異説・自説・奇説がたくさんあるので、ヒマな時にはおすすめだ。(晴)
徳川陣地側からみた「長篠の戦い」跡地(設楽原)。向かいが武田陣地側。

(写真は徳川陣地側からみた「長篠の戦い」跡地(設楽原)。向かいが武田陣地側)
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub207.htm#nagasinotoi3e